おすすめ台湾映画KANO



 

《おすすめエンタメ台湾映画 KANO 1931海の向こうの甲子園》

 

 

 

有名過ぎて、今さら紹介するのも申し訳ないですが、やはりこの映画は最高ですね。

 

感動、感動、感動、泣ける〜「あきらめない気持ち」が大切・・・(涙)。

 

日本人ではなく台湾人の馬 志翔(マー・ジーシアン)台湾花蓮県出身の俳優の映画監督が制作していることも、感動してしまいます。

 

現在の台湾と日本の友好関係や歴史が非常に良く分かり、台湾に旅行やビジネスなど少しでも関係する方は、必ず見て欲しい作品です。

 

ネットフィリックスでも観賞できます。

 

是非、ご覧ください!

 

あらすじ

 

1944年(昭和19年)、錠者大尉ら大日本帝国陸軍の将校たちは、南方の戦場へ向かうために台湾の基隆駅から、台湾南部へ向かっていた。

 

錠者は同行者に「嘉義に着いたら起こしてくれ」と言って、しばしの眠りにつく。

 

1931年(昭和6年)夏、甲子園球場で行われた第17回全国中等学校優勝野球大会の開会式に、錠者は札幌商業のエースとして参加していた。

 

日本本土の学校だけでなく、大連や京城といった外地の学校のプラカードも見える。

 

そこに交通事情から遅れて参加してきたのが、嘉義農林学校野球部の選手たちであった。

 

物語はさらに1929年に遡る。のんびりしたチームの「嘉農」野球部は当然連敗続きであったが、新任監督として迎えられた日本人の近藤兵太郎によるスパルタ式訓練により、部員たちの心には徐々に闘争心と甲子園出場への夢が芽生えていった。

 

近藤は日本人のみを贔屓することなく、守備に長けた日本人、打撃に長けた漢人、韋駄天の如く足の速い高砂族の選手たちのバランスの良いチームを作り上げていく。

 

また、かつて近藤が指導し、その指導に萎縮した松山商業と比べ、嘉農の選手たちが伸び伸びとプレーする姿は、近藤自身を成長させ、チームに対する愛情を深めていくのだった。

 

少年たちは日本語で教育を受け、日本語を話した。

 

しかし街や仲間内では台湾語を話した。

 

日本の統治下にある街には日本語と漢語があふれ、近代化整備が進みつつあり活気に満ちていた。

 

一方で、農村は治水対策が不十分で、台風のたびに甚大な被害を受けていた。

 

エースピッチャーの呉明捷(愛称は”アキラ”)は山陽堂書店の手伝いをしており、店員である静に憧れを寄せていた。

 

しかし静はやがて台中の医師と結婚して嘉義を去る。アキラは爆竹を燃やして彼女を祝福しつつ寂しげに見送る。

 

当時、台湾代表として全国中等学校優勝野球大会へ出場するのは、決まって日本人のみで構成された台北一中や台北商業であった。

 

当時は台湾全島で1校のみしか代表として甲子園に行くことが出来ず、その為に台湾大会で優勝する必要があった。

 

「一度も勝ったことがない」チームの快進撃は止まらず、勢いに乗って全島優勝を果たす。台北から凱旋した選手たちは町中から大歓迎を受ける。

 

しかし選手たちは、当時のアジア最大の水利事業であった嘉南大圳完成を知るや、パレードを中断して用水路へ向かう。

 

水が満ちていることに感動すると、視察で用水路を下ってきた八田與一に会い、優勝を報告するとともに、八田から激励を受ける。

 

迎えた甲子園大会、下馬評では弱すぎて本土のチームには相手にならないのではと危惧されていた。

 

甲子園球場に来た嘉農の選手たちは、「甲子園の土」の質の良さに感動する。初戦の対神奈川商工戦では、3-0の完封に抑え、一躍注目チームとなる。

 

その様子をスタンドから見ていた錠者は、激しく動揺する。マスコミからの取材を受けた嘉農の選手たちには当初「日本人の子は手を挙げて」「日本語は理解できるのか」等と偏見の眼差しが向けられる。近藤は民族を問わず「同じ球児だ」と反論し、生徒たちを守る。

 

準々決勝の対札幌商業戦は、19 – 7で圧勝。試合中、札商ピッチャーの錠者は茫然自失となり、自分でも理解できないうちに自らマウンドを降りてしまう。

 

再び、1944年。錠者大尉は、嘉義駅での大砲の積載に時間がかかることを確認すると、嘉農の練習場へ向かった。

 

あの時の彼らの強さの原点は、何だったのか。街には第二次世界大戦中の大日本帝国領として戦意を高揚させる垂れ幕があふれていたが、かつてのような活気はなかった。

 

錠者は、荒れ果てた練習場のピッチャーマウンドに立つ。

 

準決勝の対小倉工業戦も、10-2で圧勝。

 

魂の篭もった姿勢と素晴らしい強さは本土の野球ファンをも魅了し、応援するファンも増え決勝戦では超満員の観衆が甲子園に詰め掛ける。

 

そして決勝の相手は名門中の名門、中京商業。

 

地元の嘉義市内ではラジオ中継に熱中し狂喜乱舞する市民たち。

 

静も出産したばかりの子供と共に嘉農を応援する。

 

日本中だけでなく台湾でも大勢のファンが固唾を呑んで見守る中、その試合が始まる。

 

しかし、アキラの指は限界を迎えていた。

 

試合中に出血したアキラを近藤は降板させようとし、チームメイトとともに激しい意見が交わされる。

 

結局、アキラは続投するがフォアボールを連発し、押し出しで得点が入ってしまう。

 

そこに守備の選手たちが「俺たちが守るから、敵に打たせろ」と叫ぶ。

 

ベンチの選手たちはアキラの応援歌を絶唱する。

 

結局、中京商の吉田正男に完封に抑えられ、優勝はできなかった。

 

しかし、嘉農の最後まで諦めない奮闘ぶりは日台それぞれの人々に強い印象を残し、スタンドにいた錠者は健闘を称えて「天下の嘉農」と絶叫する。

 

その声はどんどんと大きくなり、やがて観客席全体から響き渡るのだった。

負けても泣くな、勝っても泣くなと指導された選手たちも、「僕たちはいつ泣いたら良いんですか?」とついに号泣する。

 

選手たちは、準優勝盾と甲子園の土を手に、船で台湾への帰路についた。船上ではしゃぎながら野球をする選手たちの前に、やがて懐かしい台湾の地が近づいて来る。

 

エンドロールで、近藤や選手たちのその後が紹介される。

 

ある者は日本の野球界で活躍し、ある者は台湾で野球の普及に貢献した。そして、ある者は第二次世界大戦(太平洋戦争)で戦死したのだった。

 

 

製作

 

嘉義農林の卒業生が古い資料や関係者への取材をもとに、甲子園に出場した野球部の話を一冊の本にまとめて母校に寄贈していたことをプロデューサー・魏徳聖が『セデック・バレ』製作中に知り、野球経験のある俳優・馬志翔を監督に映画化を決定。

 

 

主要な登場人物

 

近藤兵太郎(こんどう ひょうたろう) 永瀬正敏

 

嘉農野球部新任監督の内地人。

 

愛媛県立松山商業学校を初の全国出場へと導いたのち、台湾へ赴き会計士となった。

 

松山時代のいきさつから、嘉農野球部の監督就任依頼を受けても渋っていたが、練習風景を偶然見たのを機に、監督に就任する。

甲子園初出場で準優勝した後も嘉農で野球指導を続け、甲子園には春1回、夏4回出場した。

 

戦後、故郷の愛媛県松山市へ引き揚げた後も新田高等学校や愛媛大学で野球部監督を務めた。

 

 

呉明捷(ご めいしょう)曹佑寧

 

1911年 – 1983年。野球部主将(投手)。

 

4番バッター。本島人(客家)。あだ名は名前の一文字を日本人風にした「アキラ」。近藤によって投手に抜擢され、全島大会決勝戦では完全試合、甲子園では全試合完投(2回戦の対神奈川商工戦では完封)した。

 

甲子園ではその圧倒的な投球から「麒麟児」と呼ばれた。

 

卒業後は早稲田大学に進学し、台湾籍のまま日本で暮らした。

 

実の息子(嘉義市長役)と孫(台北商業の投手役)が本作に端役で出演している。

 

 

八田與一(はった よいち)大沢たかお(特別出演)

 

嘉南大圳建設に取り組む日本の水利技術者。農村で出会った嘉農野球部員たちを激励する。

 

 

 

 

KANO~1931海の向こうの甲子園~(字幕版)

 

現在のKANOと周辺の街

 

 

 

 

 

 

 



 

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